公開: 2024年2月21日
更新: 2024年7月23日
1868年に、将軍、徳川慶喜が、天皇に大政を奉還して、徳川幕府の統治に終止符が打たれました。封建制度の時代であった江戸時代、社会は、武士階級である士族、農民階級である農民、そしてものづくりを生業とする職人と、商売を生業とする商人の、4つの階層の人々から構成されていました。この身分階層は、人々の生まれによって決まるのが封建制度の基本でした。
士族は、戦国時代まで、代々、藩主に仕え、藩主のために刀を取って戦うことを使命とした人々でした。戦国時代が終わり、江戸時代が来ると、士族の人々は、兵士として生きるのではなく、藩主を支えて社会を運営する官僚として生きるようになりました。その状況は、江戸時代の後半の、約200年間続きました。彼らは、刀を持つことを許され、役職に応じて藩主から俸給を受けていました。
明治維新になり、日本社会は封建制度から、近代的な中央集権国家を建設するため、資本主義制度を導入し、江戸時代の身分制度を廃止しました。同時に国家として導入した戸籍制度に、姓と名を記載するとともに、江戸時代の身分階層を記載することとしました。このことは、江戸時代の支配階層であった武家の人々には、「旧士族」と言う古い身分階層も記されました。廃藩置県によって、身分とともに職を失った旧士族階層の人々は、藩から与えられていた俸給も失うことになり、1873年頃になると、この旧士族階層の人々の不満は高まりつつありました。
その旧士族階層の人々にとって、廃刀令の施行は、武士の誇りであった、日本刀を携行することを禁止されたため、精神的には大きな打撃となりました。特に、九州各地では、廃刀令に対する反対意識が高く、各地で旧士族層の反乱が次々と起きました。西郷隆盛らによる西南戦争は、そのような旧士族が中心となった社会的な反乱の中でも、最大の規模でした。それは、旧薩摩藩に、国内の兵器生産の主力工場が集中していたことが、原因の一つでした。旧薩摩藩の士族にとっては、それらの兵器工場は、薩摩藩が藩の財政を投入して建設したものであり、明治政府が建設したものではないと言う意識が強かったからだと、言われています。